vol.120
2021.12.30 (thu)
26:28:50
この日記ページ、月1更新を毎年の目標にしているのですが、今年は圧倒的に達成できませんでした。たぶん自分の人生史上いちばん忙しい1年でした。そして今日も残された時間があまりありません。最近書きたいと思っていたことは、前回の日記(半年前)と同じ話題で芸がないのですが、車についてです。
高速道路を長時間ハイスピードで走っている時など、運転への集中度がいつも以上に増している瞬間があります。ハンドルを握る手、ペダルを踏む足、前後左右に気を配る眼。身体にも精神にも力が入っています。そんな時、こういう言い方をして上手く伝わるか分からないのですが、脳がコックピットになったように感じることがあります。自分の眼で景色を観て車を運転しているはずなのですが、歩きながら景色を観ている時などよりも視界が遠くにあるというか、自分の中の窓から観ているような感じがするというか……車を操作しているはずが、自分自身を操作しているような気がするのです。「俯瞰」という言葉は最近よく使われると思うのですが、そういうのに似ているようで、また少し違う気がします(脱線しますが、最近よく使われるニュアンスの「俯瞰」という言葉は、僕はあまり好きではありません)。
サービスエリアで車を降りて一息つくと、車から降りるだけではなく、自分自身という乗り物から降りるような感じもする気がします。いつのまにか肩や首が凝っていたりして、コックピットに入るためにエネルギーを使っていたんだな、という感じがします。もしかして死ぬときもこういう感じなんでしょうか?
以前から「人間や動物が乗り物に乗っている」という状態が、すごく興味深いし、笑えるし、面白いと思ってきました。あるいは「生き物は遺伝子の乗り物に過ぎない」みたいな概念というか発想も好きです。そしてこういった「乗り物」に関する色んな事柄のあいだには何らかのリンクがあるのではないかと思ってきました。「脳コックピット状態」は今年の春から日常的に車を運転するようになって気づいたもので、自分にとっては「乗り物」に関する新しい発見でした。端的にまとめるならば「集中して何かの乗り物を運転すると、自分自身が乗り物になることがある」ということになるかもしれません。車はすごく自由な乗り物だけど、同時に1人の人間の小ささみたいなものを感じる乗り物でもあると思います。そこが切なくて好きです。今の生活で一番大きな収穫の1つは、この感覚を知れたことです。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』で主人公が車を運転するシーンが度々出てきますが、あそこだけ読んで・思い描くだけでも泣けてきます。
なんだか上手く書けなかった気がしますし、最後は笠に着るような引用までして無理やり意味ありげにまとめてしまいました。
このウェブサイトの更新をサボっている間に展覧会をやったり新しいアルバムを作ったりライブをしたりしたので、そのうちアーカイヴを更新したいと思っています。あと来年こそは月1更新を取り戻したいと思っています。
27:01:53
vol.119
2021.6.30 (wed)
23:18:58
前回の更新から4ヶ月経ってしまった。3月中旬に引越しをしたのだけど、地獄の荷造り・荷解きに始まり、引越し完了後も仕事や家の手入れなどを絶え間なく進めている中で、日記を更新する時間を全く取れなかった。昨年と一昨年は月1更新をキープできていたので残念。いまだに慌ただしさは続いているけど、ギリギリ更新できるくらいには落ち着いてきた。とはいえ書こうと思っていることはどれも、これまでと同様に取り留めのないことばかり。
ある時期にハマって繰り返し聴いた音楽を、何年か経ってから聴き返すとその時期のことを克明に思い出す、ということが自分にはよくある。いわゆる「青春の曲」とか、誰しも1曲くらいはそういう風に記憶と強く結びついた音楽があるんじゃないかと思う。で、自分の場合、「青春」みたいな具体的で鮮やかな出来事とリンクしてる場合もあるけど、特にそういう目立つ思い出はない時期でも、何となくその頃着ていた服や街で嗅いだ匂いなどを思い出す、というようなことがよくあって、そういう曲は1年に数曲くらいのペースで生まれている気がする。「トニーニョ・オルタの韓国ライヴ盤の1曲目を聴くと、2013年の冬に卒論を書いてた頃の日差しを思い出す」みたいな。ちなみに、「では最初からその音楽がその頃の自分の精神状態や感覚を代弁してくれていたのか?」というと必ずしもそうではなく、「たまたまその時期にハマって繰り返し聴いていたから、今聴くと当時のことを思い出すだけ」、というパターンも多い気がする。でもいずれにせよ、その音楽は結果的にその時の自分の精神と深く結びつくことになったわけだ。
日頃から音楽を聴いたり作ったりしている中で、一種のスランプのような状態というか、何を聴いても面白くない・ピンとこない、あるいは自分の才能のなさにうんざりして何もやる気が起きなくなる(これは割と恒常的だけど)、という瞬間がたまにある。ここ数ヶ月、慌ただしく過ごしていたこともあって音楽に対する感度が鈍り、そういう状態に陥って「いよいよダメなんじゃないか」などと思うことがしばしばあった。そんな中で先日、1つの指標として、上に書いたような「記憶と深く結びつく音楽」が新しく生まれている間は大丈夫なんじゃないか、ということを思いついた。そういう風に聴き込める音楽に出会えなくなったら(音楽に対して夢中になれなくなったら)、ミュージシャンとしてもリスナーとしても終わり。他の人がどうかは知らないけど、あくまで自分自身に適用する基準の1つとして。
ここ最近一番聴いている曲はSam Wilkesの「Descending」。まだ時間が経っていないから定かではないけど、将来この曲を聴き返したら、2021年の春に新しい土地で新しい生活を始めた頃のことを思い出すだろうと思う。こういう曲に出会えたので、自分は一応まだ大丈夫だと思っている。
これまでの人生における主な移動手段は自転車&電車だったけれど、住む場所が変わって生活の構造も変化し、電車に全く乗らなくなった。そのかわり車が主な移動手段になった(自転車には引き続き乗っているけど、割合は減った)。そんなわけで「カーステレオで聴く音楽」というものが生活の中で占める比重がにわかに高まってきた。「Descending」は、夕焼けを見ながら海沿いや平野を走っている時にこれ以上ないくらい合う曲だ。Sam Wilkesのインタヴューを読んでいたら「いま自分が作っている音楽は、子どものころ車に乗りながら家族みんなで音楽を聴いていた時の感覚を再現しようとしているのかもしれない」というようなことが書いてあって、すごいなーと思った次第。
引っ越してくるまでは、車を買わなければならないのが本当に嫌だったんだけど、いざ乗ってみるととても気持ちがいい。今まで手に入れた乗り物の中で、ある意味では一番自由な気分になれる乗り物だと思う。東京ではこんな気持ちで運転できたことはなかったな、などと思いつつ、黄色い車のある生活をかなり楽しめている。今のところは。
24:12:52
24:31:21 修正
vol.118
2021.2.26 (fri)
25:55:07
先週、車を買った。
最近あった出来事の中で、分かりやすく目立つトピックといえばこれになると思う。
ひょっとすると自分は死ぬまで車を所有することはないかもしれない、と思って生きてきたし、単価も今まで買ったものの中で一番高い。
と言っても10年落ちの激安中古車なので、そこまでの値段でもないのだけど。
でも気に入った車が見つかったので、大事に乗っていきたいと思う。
*
中学のときに1年間付き合っていた女の子と久しぶりにラインしたら、春に入籍することになったとのことだった。自分ももうすぐ遠方に引っ越すので、近況報告がてら久しぶりに会おうということになり、地元のファミレスに行った。
その子と付き合っていた当時、一緒にいて盛り上がったような記憶があまりない。向こうから話しかけてくることはあまりなくて、多くの場合は僕が何かしら話題を振っていたような気がする。でも決して無口な子というわけではなくて、仲の良い女の子の友だちと話している時なんかは、かなり盛り上がってワイワイやっているような感じだったと思う。学校や何かでそういう様子を遠くから見かけることがあって、自分といる時にもそういう表情を見せてくれたら良いのにな、とかたまに思っていた気がする。なんか悔しいというか、寂しいというか。今になって思えば、中学生の男女交際って少なからずそういう距離感だよなとも思うけど。
で、数日前に久しぶりに会うことになって、お互い大人になったし、けっこう話も弾むのではないかと思っていたのだけど、会ってみたらその頃とあまり変わらなかった。あまり話題と話題が繋がらなくて、ちょくちょく沈黙に挟まれる感じ。1対1でちゃんと話すのは多分10年以上ぶりで、話すことがいっぱいあるような気がしていたのだけど、いざ会ってみると「ここ数年で印象的だった出来事ってなに?」「う〜ん、特にないな…」みたいな感じだった。お互い「特にない」はずはないんだけど、ちょうど良いネタは思いつかない、というか。そんなペースで2時間くらい喋って、2人で地元をブラブラして帰った。
たとえば、いま初めてその子と知り合ってデートしたとして、会話がそういう感じの地味な盛り上がり方だったら、そこから恋愛に発展する可能性は低い気がする。で、中学生のときはそういうことまで気が回るわけでもないし、色々な流れの中で付き合い始めることになって、取り立てて相性が良いわけでもないのに何となく1年くらい付き合っていたのかもしれないな……と一瞬思ったんだけど、すぐに「絶対そうじゃない」と思った。
会話が盛り上がるかどうかとか、そんな表面的なこととは別の部分の何かに魅かれて僕はその子のことが好きだったし、向こうも僕の何か(その頃の自分のどこに人を魅きつける要素があったのか、全く想像できないのだけれど)を好きでいてくれたと思う。そして盛り上がらない会話の中でその子が口にする数少ない言葉の中には、寡黙な人が1つ1つ確かめて配置していく言葉特有の輝きがしばしば宿っていたと思う。それは何か凝った単語を使ったり重厚な言い回しをしたり、ということではなく、ここで分かりやすい例を挙げることは難しい。多くの場合それらはどれも平易な言葉だけれど、話すスピードや前後の会話の文脈や、色んな物事の関係性の中で、河を流れていく水のきらめきのように輝くものだ。だから、僕は昔も今も、その子との「盛り上がらない会話」が退屈だったことは一度もない。
そしてこういうところまで含めて、中学生の男女交際の中にしか宿り得ない輝きなんじゃないかなと思った。あるいは、いつまでも異性とそういう関係を築いていける人もいるのかもしれないけれど。
自分は4月に30歳になる。その子と付き合っていたのは15歳の時のことで、ちょうど人生の「半分前」という感じだ。その頃のことを思い出すと半分は前世の記憶のようにも思える。もちろん、外から見たら「15年」という時間が特に大した長さを持っているわけではないということは分かっているけど。
「最近、誰か中学のときの同級生に会った?」
「うーん、あんまり会ってないな。ほとんど限られた人だけ。最近はそれも減ってきた」
「誰か中学の頃と印象変わった人いる?」
「いや特に。みんな変わらないよ」
「おれは?」
「昔と変わらないよ」
自分は来月、30年間暮らした東京から一度出て行く。
26:46:47