vol.47
2015.9.6(sun)
ついさっき・・・パソコンの外付けハードディスクに入れておいたはずの音楽データなどのフォルダ(1TBくらい)がいつの間にか跡形もなく消えており、20分くらい探してもどこにもないので、何かの拍子に誤って消してしまったのかもしれないと思いとても落ち込んでいた。が、よく考えたらもう1つハードディスクがあったことを思い出して、データはそこにちゃんとあった。そしてその瞬間、天に昇るような幸せな安堵に包まれ、現在も「今なら誰にどんなことをされても許せる」みたいな、賢者のような気持ちの状態が続いている。そしてデータが消えたか否かでこんなに一喜一憂してしまったことで、自分がまだまだちっぽけな器の人間だということを改めて思い知らされたような恥ずかしい気持ちもある。
このページ、日記と銘打っておきながら殆ど月刊化してしまっているし、先月に至っては休刊してしまっている。これから頑張って1週間か10日に1回くらい更新していきたいと思うので良かったらたまに覗いてみてください。
それから9/26(土)の京都アバンギルドでのライヴ、中々ない機会ですしお近くの方はぜひ。ライヴ中はハードディスクのデータが消えても全く動揺しません。
vol.46
2015.7.27(mon)
▼なぜか武道館のような大きな会場でライヴをすることになり意気揚々とステージに上がるのだが、舞台の上には小学校の体育館にあるスピーカーみたいな機材しかない。オマケにドラムのヤツが見当たらない。一旦ステージの袖に下がりドラマーに電話をかけてみると「いま起きたわ」とか言ってる。みたいな状態で焦りまくる、という夢を5年ほど前に観た。
先週の木曜日、久しぶりにこれと似た夢を観た。同じような巨大ホールで、今回はバンドメンバーは全員いた気がするけど、PAのエンジニアの人たちが何故か全員素人並みに何も分かっておらずロクに音が出ない。しかもなんかヘラヘラしている。1回楽屋に引き返しスタッフと相談。ステージに戻ると大きな会場にいた沢山のお客さんは1人残らず消えている、という夢だった。
別にそういう輝かしい舞台に立ちたいと思っている訳でも、一緒に音楽をやってる友だちに不信感を抱いている訳でもない。夢分析とかをしたら自分の歪んだ深層心理が指摘されるのかもしれないけれど、とりあえずその辺は何でも良いや。ただ5年ぶりによく似た夢を観たので「へえ〜」と思っただけ。後味は悪かったけど、。
▼仕事が休みの日に近所の大型スーパーのフードコートに行くのをこれから趣味にしていこうと思っている。まだ2回しか行ってないんだけど。先日はカツカレーを食べて、今日はポテトフライと唐揚げのセットを注文した。どちらも美味しかった。フードコートに滞在している20〜30分間はとにかく何も考えていない。身体のどこにも力が入っていない。かといってダラしなく振る舞っている訳でもない。とにかく自然に力が抜けて、安らいだ気持ちでゆっくりフードを味わう。基本的に店は空いていて、子ども連れのお母さんとか1人のおじいさんとかが多い。
休日、休暇、休憩、休息、バカンス、オフ、バケーション……少しずつニュアンスや意味が異なるこれらの言葉≒概念に通底する「何らかのエッセンス」がスーパーのフードコートにはごく自然に、確実に在る。
▼今年の夏の暑さには80年代っぽさを感じる。一口に「80年代」といっても様々な要素があるけど、ここで自分が取り上げたいのは一言で喩えると「尾崎豊のGパンっぽさ」。尾崎が分厚い生地の色褪せたブルージーンに、少しヨレた無地の白Tシャツをインして、髪の毛に凄いヴォリュームがある感じ…自分は尾崎の音楽が大好きだし、尾崎のことをバカにしたいわけではなく、「尾崎のように暑苦しい」というような安直な比喩を使いたいわけでもない。
たとえば、あの時代、小学校の運動会で徒競走が行われた時には、今の時代よりも多くの砂埃・土埃が舞っていたのではないかという気が何となくする。自分は90年代生まれなので知る由もないのだけれど。運動すればしただけ砂埃が舞い、汗をかいたら家に帰ってシャワーを浴びるまでずっとベタベタしていたような時代…今はその頃より校庭が整備されているような気がするし、制汗剤や汗ふきシートみたいなアイテムも充実して、子どもでも普通に学校に持って行ったりしている。
ここ数年の夏の暑さは、自分にとってそういう「汗ふきシート」みたいな逃げ場がある暑さだった。でも今年の暑さからは、そういうごまかしの利かない、「外に出れば出たぶんだけ暑い」あるいは「絶対にカンニングできない試験官の先生」みたいな実直さ(?)を感じる。1時間歩けば1時間ぶんの汗をかくが、1時間歩く以外に目的地に辿り着く手段が存在しない感じ=ショートカットができない感じ。自分にとってそれらの「感じ」は尾崎のジーンズに表象される。テクノロジーの発達やインターネットの有無といった時代性も関係しているのかもしれない。勤勉や実直を礼讃したい訳でも、それらを時代遅れだと言いたい訳でもない。
非常に伝わりにくいとは思うのだけれど、自分の感覚では、今年の暑さにはそういった「80年代」「尾崎のGパン」という比喩がただただよく当てはまる。今年は梅雨もスゴいベタだった。だから夏も実直なのかもしれない。でも梅雨は特に80年代っぽくはなかった。
vol.45
2015.6.29(mon)
昨日はOWKMJ(俺はこんなもんじゃない)のライヴ。
ここではあまり書いたことないけど僕(田中)は2012年からOWKMJにギターで参加しています。
2つ前の日記で電池のことを書いたけれど、最近エフェクター周りの機材を一新して、昨日は初めてそれらを全体的に実戦で使うライヴだった。機材を変えてからしゃしくえのライヴを2回やったけど、しゃしくえで使うエフェクターの量はOWKMJの時の半分くらいなので。で、昨日は若干サウンドをコントロールしきれなかった部分もあったけど概ね良く演奏できた気がする。もっとやばいギターが弾けるようになりたい。40歳をすぎた頃に日本で1番奇妙なギターが弾けるギタリストになっているために、毎日コツコツ練習を積み重ねなければならない。死ぬまで楽器と作曲を続けて、「あ〜練習時間足りなかったわ〜」と言いながら老衰で死にたい。
———
それはそうと咳が止まらないので家の裏の病院に行ってきた。
「前に来たのいつでしたっけ?」と先生に訊いたら、
「4年前だね。その1年前にも来てる。この時は『池に飛び込んだ』ってカルテに書いてあるね」と言われたので、
「飛び込んだんじゃなくて落ちたんです」と言っておいた。
———
文章を書く仕事をするようになってから、パソコンで文字を読んだり書いたりする時には画面上の字を拡大表示する習慣がついた。その方が読みやすい&書きやすいからだ。今もバカでかい字を表示させてこれを書いている。この習慣がついて良かったと思う。
vol.44
2015.6.26(fri)
暗い部屋で熱を計って 静かな天井を見ながら思う いま自分は若い
↑短歌
vol.43
2015.5.10(sun)
最近はよくこの花が咲いてる
最近買って嬉しかったもの1 9.6Vの充電池×5
最近買って嬉しかったもの2 電気テスター(電流や電圧を計る機械)
充電池は楽器関係で使うために買った。主な目的はライヴの時に運ぶ機材の量を減らすこと。電池に換えたことでモジャモジャしたコード類とオサラバできるので嬉しい。あと今まで使っていた電源アダプターよりもノイズが減ったし、外国製の強力な電池なので音も少し良くなったと思う。でもそれより何より荷物が減るのが嬉しい。あと充電池というものはやっぱり良いものだなと思う。
テスターは充電池のチェック以外では殆ど使う予定はない(人生的にも)んだけど、近所のスーパーで見かけて手頃な値段だったのとデザインが好きだったので買った。でももしかすると今後自分が生きていく中で、思いがけずこの機械の出番が来ることが数回ぐらいはあるのかもしれない。できればその数回全てをこの1台で乗り切りたいので、自分が死ぬまで壊れないでほしい。
****
今週末5/16(土)は、高円寺の円盤でしゃしくえのライヴがございます。 この充電池も使います。お客さんからは見えない場所に仕込まれますが、。 ライヴは6月と7月にも1本ずつやります。タフな新曲も演奏できると思うし、是非遊びに来てほしいです。
機材をグレードアップすると何となくそれで満足してしまうようなこともあるのだけど……充電池を買ったぶんギターと歌をしっかり練習して、自分自身もグレードアップしないといけない。今週は仕事の帰りに毎日カラオケに寄ろうかな。無理かもしれないけど。
http://www.shacique.com/schedule/
vol.42
2015.5.4(mon)
図書館で『和ジャズ・ベスト100』という5枚組のCDを借りてきたはいいものの、「和ジャズ」と聞いて最初に自分が思い浮かべるのは「湿度高めな暗いフリージャズ」で、聴くのがちょっと憂鬱でロクに開きもせず2週間放置していた。しかし先程やっとCDプレイヤーにdisc1を入れて再生したところ、1曲目は日本で初めて録音された(とされる)ジャズ音源で、1928年のものなんだけど、とろけるくらい優しくて楽しそうな音のディキシーランド・ジャズで涙が出そうになった。CDはだんだん時代を下っていく構成になっているらしく、disc4あたりで自分が懸念していた時代に差し掛かるっぽい…でも自分が畏れていたような内容のCDでは全然なかったので良かった。よく見もせずに借りて勝手な偏見を持ってた自分が悪いのだけど。
自分はベーシストの鈴木勲さんのことが大好きで、今回『和ジャズ・ベスト100』を借りたのも、勲さんと同時代の他の日本人のジャズを聴いてみたくなったから。でもこんな人って他に居るのかな。最強の演奏家、音楽家だと思う。
以上、好きな音楽について独り言のように語る日記でした。
鈴木勲さんのインタビュー http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/interview-isao-suzuki
vol.41
2015.4.19(sun)
人の笑いの深さ、というものにはいくつかの段階があると思う。
1.そこまで面白いと感じてはいないけど場に合わせてニコニコする
2.心から面白いと思って屈託なくワハハと笑う
3.ツボにハマって成り振り構わずゲラゲラ笑い転げる
みたいな。
笑い声のデカさとかアクションとかには人それぞれ色んなヴァリエーションがあると思うけれど…。たとえば3番の深さで笑ってる場合でも、大きな身振りと共にバカデカい声で笑う人がいれば、蚊の鳴くような声で殆ど動かず笑う人もいる、ということ。笑いの深さと、その表出の度合い(声のデカさ、動きの派手さ、とか)は必ずしも比例しない、ということでもある。
目の前に居る人がどれくらいの深さで笑っているか、ということは、大体なんとなく判ると思う。謎めいていて本心が読み辛い人もたまにいるけれど。
誰かとの付き合いが長くなってくると、この人は1番の時こういう雰囲気で笑う、2番の時はこんな声を出す、3番の時はこんな表情になる、という風に、その人の笑いの深さと表出の仕方の間にある方程式、パターンを憶えていくようになる。
で、さらに付き合いが長くなると、この話をしたらあいつはきっと3番で笑ってくれるだろうな、という想像もつくようになってくる。その人がどんなことを面白いと思うか、ということが何となく分かるようになってくるのだ。
自分のした話に対して、目の前の誰かが3番の笑い方をしてくれると嬉しい。そういう時は、目の前の誰かがゲラゲラ笑い出す一瞬前に「あ、こいつゲラゲラ笑うな」というのがスーッと判ることも多い気がする。
今日は自分の誕生日で、24歳になった。
vol.40
2015.3.25(wed)
*最近撮った写真。全部iphoneだけど…いわき、栄、小豆島、大阪、酒田に行った。
vol.39
2015.3.6(fri)
*少し前に図書館で『金田一少年の事件簿』を借りて読んでいたら、序盤の方でページの片隅に「←こいつが犯人。これこれこういうトリックを使う」みたいな落書きがしてあって、ひどいイタズラだ…と思いつつも、きっと小学生とかが書いたんだろうな、こういうハプニングは図書館で借りた漫画ならではの醍醐味ともいえるかもしれないな、と思いながら最後まで読んだ。そしたら落書きで示されていた登場人物は犯人ではなく、書かれていたトリックも全く出てこなかった。なんだか狐につままれたような気持ちになって、なかなか高度な落書きだと思った。でも一体なんだったんだろう?
*最近一番面白かった会話
「そういえばあいつ最近元気?」
「わかんない…でも『色んな友だちからお金を借りてる』って噂はよく聞く」
*少し前に図書館で借りたウィーン少年合唱団のベスト盤に入っていた『ロッホ・ローモンド』というスコットランド民謡が良かった。youtubeで色んな人が歌っているのをいくつか聴いてみたけれど、図書館で借りたウィーン少年合唱団のものが一番好きだった。歌詞も素晴らしい。
vol.38
2015.2.23(mon)
昨年11/24からずっと借りていたトマス・ピンチョン『Vineland』(佐藤良明さんの最新訳版)をやっと読み終わった。(返却期日を無視していたわけではなく、ちゃんと図書館に行って貸出延長の手続きしてました。) 生まれて初めてピンチョンの作品を読んだのだが、ワケが分からなすぎて全く進まず、チビチビ読んでいたら3ヶ月も掛かった。その間『金田一少年の事件簿』を30冊くらい読んだし、『幽遊白書』も全巻読み返した。 『Vineland』は知識不足すぎて8割方理解できなかった気がする。でも途轍もない作品だということは判った。30歳とか40歳とか50歳とかになった時にまた読み直せたら良いな、というか「また読んでみよう」と思えるようなオッサンに成れていたら良いなと思った。 以下は、今回読んで特に印象に残った部分。
“街の路上で見た、田舎の野辺でも見てきた、不正の数々。あまりにも多くの不正が糺されぬまま通っていた。それらを、他人から教えられた歴史理論の教義を通してではなく、もっと直接的に、肌で感じることが大切なのだと彼女は思った。この惑星に生を得た一人ひとりの生身の人間、すぐそこにいる生身の男たちが、他の生身の人間たちに数々の罪の行為を犯しつづけていることこそが問題なのだと。〈歴史〉を抗えない法則にしてしまうのではなく、たしかに抗えないかもしれないけれど、とにかく名前を持った具体的な場所で、個々の人間が行なう不正と暴虐に対して「ノー」と言って立ち上がること。それは法則などとは別のことだと”
“「ウィードさん、逃げて」 「で、その先は?」 「数学に戻る。公理を発見するんだ」 ウィードは眉をひそめた。「公理ってのは、発見するものじゃない」 「そう?惑星みたいなものかと思ったけど、違うの?どこか遠くで発見されるのを待ってんじゃないのか……」 「ちがうね」 ふたりは見つめ合っていた。以後こんな風に長く見つめ合うことは二度となかった。何年もの月日が流れて再び出会うことができるのは、そのときに微笑みを交わし、一本の低い樫の木の下でリラックスしながら過去を追想できるのはひと握りの幸福者だけだということを、このとき二人はまだ知る由もない。 太陽に照らされた、現実にはありえない丘陵に、子供たちの声が響く —————— 「教義なんかに縛られない、ほんとに自由な革命の運動がやれてるんだと、本気でそう思ってたんだよな」”
ピンチョンは誰よりも凄い文学のバケモノだと思った…でも「天才」という感じではないのかもしれない。あとピンチョン作品をたくさん翻訳している佐藤さんも凄いと思った。
* 知人にシンセサイザーの演奏を教えたら、お礼に土佐文旦を1個くれた。そしたら次の日、高知から文旦が20個届いた。家族が、形が悪かったりして出荷できない個体を高知の農家から格安で20個買ったらしい。 文旦はデカイし、皮が分厚くて、食べていると「1個の果物を攻略している、頂いている」という気分になるし、美味しいから最高。皮が分厚すぎて、食べ始める時に図のように上と下をバッサリ包丁で切り落とした方が早い、というのも笑える。(皮が分厚すぎて、剥くより切った方が楽、ということ。)白い部分はふかふかのスポンジみたいになってる。 文旦の皮をたくさん剥いて、ピチっとした果肉がぎゅっと詰まっているのを見ると、フラクタルという言葉が頭に浮かんでくる。ミカンやでこぽんよりも文旦の方がフラクタルな感じがするのはなぜだろう。
vol.37
2015.2.17(tue)
しゃしくえのピアニスト山本君は幼稚園か小学校の頃からずっと「やまもん」というニックネームらしい。少し変形して最近は「やーもん」と呼ばれるようにもなってきたとか。しゃしくえのヴァイオリニスト大福さんは最近は「ゆっちゃん」と呼ばれることが多いが、少し前は「ゆっこ」というニックネームがスタンダードだったらしい。自分は田中耕太郎という名前ですが「田中」あるいは「耕太郎」と呼ばれることが多い。幼い頃は「耕ちゃん」「Kちゃん」などと呼ばれていた。小2の時に仲良かった友だちが突然「こうた」と呼び始めて、小〜中学校まではそれが定着していた。この呼ばれ方は気に入っていたけれど高校に入った頃から殆ど呼ぶ人が居なくなってしまった。なのでたまに小中学校の友だちに会ってそう呼ばれると少し嬉しい。
何が言いたいかというと、まず1つは、その人を呼び易くするために生み出されるニックネームというものの中でも、「やーもん」の「もん」、「ゆっちゃん」の「ちゃん」、「耕太郎」の「太郎」は、オマケというか、語尾を整える、あるいは勢いを付けるための飾りみたいなもので、「固有名詞」ではないということ。そしてもう1つは、逆にいうと「固有名詞」は「やー」「ゆ」「耕」の部分だけだということ。そこだけが、周囲の親しい人たちが「その人」を認識する時に使っているいわば「本当の固有名詞」だと思う、ということ。
日本人の名前の文字数は平均で5〜8字程度なのではないかと思うけれど、親しい間柄における「名前」というものは、「やー」とか「ゆー」とか、1〜2文字もあれば、あるいは1つか2つの音さえあれば、充分「その人」を固有のものとして表現できるということだ。5〜8文字程度の名前、いわゆる「本名」は、それとはまた別の様々な機能のために存在しているのだと思う。
でも、ヤマダ・カズアキという名前の人物が「ヤマカズ」というニックネーム(4文字)になる、というようなパターンもあるので一概には言えないけれど。
vol.36
2015.2.15(sun)
洗面所の天井の電球が切れていたので交換のために穴を覗くと、普段は逆光で見えないソケットの周縁に少しの隙間があって、そこから向こう側のちょっとした空間、つまり天井裏を見ることができるのに気付く。洗面所の天井から天井裏の天井までは思ったより高さがあり、30cm〜50cm程度あるように見える。20年近く住んでいるマンションの天井裏にそのような空間があったことを初めて知る。「天井裏の部屋」を覗くことができる穴は今のところここしか見付けていないが、同様の空間は洗面所以外の天井裏にも存在しているのかもしれない。大人でも匍匐前進をしながらであれば住めるな、などと思わず考えてしまう、意外なほど広々とした空間。誰かが住んでいたことがあるかもしれないし、あるいは今も住んでいるかもしれない。時々おかしな方向から物音や話し声らしきものが聞こえることがあるし。天井裏に限らず、たとえば部屋と部屋の間の壁の中がどうなっているかということだって、見たことがないから判らない。小柄な人間が住めるくらいのスペースがあって、実際に誰かが住んでいるかもしれない。あるいは夜、壁の向こうの部屋からイビキが聞こえてきて、そこで寝ているのはよく知った家族だと思っていても、その時その部屋で寝ているのは全然知らない誰かかもしれない。そもそも自分は家族のことをよく知っているのだろうか。同じ家に住んでいたとしても、壁を隔てて違う部屋にいる時、家族がどんなことを考え何をしているのかということは判らない。
洗面所の天井裏を見付けたのはここ1年ほどの話。けれどそれとは関係なく4年ほど前、震災直後の頃、こういったことを繰り返し考えていた時期があって、その時に作ったのが『家族の箱の中庭で』という曲。天井裏を見付けた時にはまずこの曲のことを思い出した。
このあいだ朝起きたらマンションの下の階からテレビの音が聞こえてきた。床下からくぐもって届く言葉を聴き取ることはできないが、声のトーンから朝のニュースでアナウンサーが原稿を読み上げているのだと判る。北朝鮮のアナウンサーのゴツい発声はしばしば日本でバカにされたりするが、床下から聞こえてくる日本のアナウンサーの言葉の意味を失った声の輪郭は北朝鮮のそれと殆ど変わらないということに気付く。
vol.35
2015.2.13(fri)
庭に穴を掘り一息ついてから中を覗いてみる
そこに深い闇が広がっていたら
あなたにも歌が聴こえてくるだろう
もしかしたら歌うことすらもできるかもしれない
vol.34
2015.2.6(fri)
口の中でガムをコロコロ丸めてかなり球体に近付いた気がして出してみると全く丸くないどころかむしろ立方体に近いくらい、ということがこれまでの人生で少なくとも10回以上はあった。人間の舌は、眼や手に比べると「形」に関する情報を識別する能力は弱いんだと思う。当たり前か、。それと人間の舌は物を丸めるのにはあまり向いていないということもあるかも知れない。
*昨日吉祥寺でライヴで、駅から降りて少し歩くといつのまにか凄くデカいヤマダデンキが建っていて心底驚く、。何か安いイヤフォンとかが入ってるツルっとした曲面のプラスチック箱みたいな印象の外観…吉祥寺は地元というわけではないが幼い頃からとても良く遊びに来たり買い物に来たりしている街なので、地元と言っても良いくらいだとは思う。最近はやっぱり街がどんどん変わってきていて、上記のヤマデンの外観から受けた印象の書き方でもお判りいただける通り、ケバケバしい雰囲気になっていくのは自分はあまり好きではない。かと言って不快、悲しい、憤りを覚える、などというほどでも特に無い。自分が住んでいる街も少しずつ変わって来ているが、それもやはり同様。
朝は雪がしっかり降っていたが夕方吉祥寺に着く頃は小降りになっていて、傘も持っていたけど別に良いかと思って差さずにライヴハウスに向かう。信号で待っていると後ろから声を掛けられて高校の時一緒にヒップホップのバンドをやったりしていた友だちで、いま囲碁を教えるバイトをして1万円もらって凄くハイな気分だと言っていた。「どこ行くの?」「これからライヴするんだ」「行くしかないな」ということで来る。1万円あれば買えないものはない、というようなことをしきりに言っていた。リハーサルを済ませてしゃしくえメンバーで軽く食事に行こうとするとその友だちは「中華料理食ってくる」と言ってどこかに行った。
サッと食事してライヴハウスに戻って、出番3番目なので楽屋に居たり共演者のライヴを観たりして過ごす。友だちは相変わらずハイテンションで楽しそう。結局8杯くらい飲んでいたし、アクロバティックな姿勢でしゃしくえのライヴ写真も撮ってくれた。最後の方は「URLと古代文字はどこかにジャンプするところが一緒だと思うんだ」というようなことを言っていた。その友だちは最近は電子音楽を作っているのだが、高校の頃はラップもよくやっていた。僕は彼の声が好きなので、そういうのもまた聴いてみたいなとたまに思う。
自分たちの演奏は派手ではないけど自然にリラックスしてなかなか上手くできた気がする。「俺はこんなもんじゃない」で一緒の岸田さんが以前「レコ発の次のライヴは良い演奏ができる」(たぶん良い具合に力が抜ける、というような意味じゃないかな?)という説を唱えていたけどそうなのかもしれないなと思う。
この日のライヴは北海道の「nessie」というバンドが東京にライヴしにくるにあたって誰か対バンしたいバンドある?と訊かれた際にしゃしくえの名前を挙げてくれて、それで呼んでもらえたイベントだった。nessieの人はしゃしくえのCDを聴いていてくれただけではなく、しゃしくえのピアニスト山本君と5〜6年以上?ネット上で親交があり、この日初めて会う、というオフ会のような機能も備わった日だった。そういえば年末に名古屋に行った際にも同様の人が山本君と初めて邂逅して会話が弾む、という一幕があった(どちらも山本君が高校の頃にやっていたブログのファンだったらしい)。山本君は手広い男だと思った。
終演後、北海道の話とかそれぞれの地元の話とか音楽の話とかして和やかな感じで盛り上がって「また会えたら良いですね」みたいなことを言って店を後にする。この時間の吉祥寺から渋谷に向かう電車は人もまばらで独特のシーンとした感じがあって自分は好き。山本君と途中の駅まで一緒。先日の自分たちのイベントで対バンしてもらったSAKANAの音楽の話など。山本君が途中で降りて「じゃまた」みたいな感じで自分はもうしばらく電車に乗って家に帰った。少しお腹が空いていて冷蔵庫に残っていたスープを飲んで部屋の片づけ等をして寝た。
—–
特に何かが起こったわけではないのだけど、雪が降っていて、優しい友だちと穏やかな時間を過ごせて良い1日でした。みたいな雰囲気の日記にしようと思って書き始めたのですが、とりとめのないバンドマン日記みたいな感じになってしまいました、。1/31を振り返る記事もまた書きたいと思っています。
昨日は静かな良い1日でした。
vol.33
2015.1.28(wed)
腰が痛い
vol.32
2015.1.24(sat)
昨日、吉祥寺のキチムへ西脇一弘さんの個展を観に行ってきました。 西脇さんの絵のサイトでも一部の作品を観ることができます。
自分が西脇さんの展示に行くようになったのはここ5年ほどのこと。 東京近郊の展示には大体足を運んでいると思う。
近年の西脇さんの作品は、小さな紙にインクで描かれた軽やかなタッチのイラストと、2m近い大きな人物画・風景画(包装紙にペンキを中心とした画材で描かれているらしい)がメイン。 自分は特に後者の大きな絵を観るのをいつも楽しみにしている。
近年の作品は、人物画も風景画も、描かれているモティーフや構図は基本的にほとんど一定なのだけれど、毎回少しずつちがう印象を感じる。今回展示されていた作品からは、少しポジティヴな感じというか、凄く前向きというわけでもないけど、落ち着いた希望のようなものを自分は感じた。奇妙さや寂しさといったものは今回はあまり感じなかった。(一枚だけあった家の絵はやはり奇妙だなと思ったけど…家の絵はいつも奇妙だなと思う)
でも、自分が西脇さんの絵を観るといつも感じることというのもあって、その1つは「静けさ」のようなものである。 もちろん、静かな表情や風景が描かれているということも大きいのだけど、西脇さんの絵を観ていると、静けさというものは、静かなモティーフを描いたからといって表現できるものではないのだろうなと感じる。長い年月や経験などからくる「深さ」や「重厚さ」、と言ったら安直すぎるかもしれないけれど、そういうものなくして「静けさ」というものは表現できないんだろうなと思う。西脇さんの絵には自分にとってかなり圧倒的な「静けさ」があるけど、それは決して重々しいものではない。静かにただそこにあるのだけど、こちらの感覚をとても深く冴えさせてくれる、という感じのもの… 日常生活の中でも「静けさ」というものを強く感じるのは頭が深く冴えている時だよな、と思う。
西脇さんの絵を観て帰る時は、普段よりも街の音がくっきりと聴こえて、空気がゆっくりと流れているような感覚になる。 大げさにきこえるかもしれないけれど、年数回、コンスタントに西脇さんの展示を観られることは、東京という街に住んでいる自分にとってとても幸運なことだといつも思う。
昨日は展示を観ていたらたまたま西脇さんがお店にいらっしゃって、ファン仲間(?)のIKEDAさんが写真を撮ってくれました。
何枚か撮ってもらって、途中で西脇さんが変な顔をしていたので真似してみたりもしたのですが、全く風格が足りず敵いませんでした。
今回の個展はもう明日で終わりですが、ご都合のよろしい方には是非ともおすすめしたいです。 もちろん今後の展示も、。
それから来週の土曜日1/31は、しゃしくえのCDリリースイベントに、西脇さんとポコペンさんのバンド・SAKANAに出演していただきます。こちらも是非ともよろしくお願いします。(どさくさに紛れて自分の宣伝に繋げてすいません)